遠くに行っても
10月9日に王座戦予選、小林宏七段との一局。
下図は相矢倉の矢倉から後手の自分が角損の猛攻をしているところ。形勢は駒損でも全軍で戦ってる後手が良い。

図の△7五桂が決め手に近く、先手陣は受けが利かない格好になっていた。
実戦は▲8六角△同飛▲同歩△6七角と進んで勝勢になった。▲8六角は攻防を含んだ手だが、ばっさり飛車で切って△6七角と打って受けなしになった。(△7八角成からの詰めろ)
対局後はそそくさと連盟を出た。元兄弟子の前田真周さんに会いにいく約束があったからだった。
家に帰って着替えて、再び電車に乗ってようやく到着したのは日付が変わる30分くらい前だった。
もう遅い時間だった。
奥さんとお母さんが見守ってくれる中、約2年ぶりの再会が、元気な頃の前田さんの遺影の前になるなんて思いもしなかった。
いや思いもしなかったなんてもんじゃない、そんなことあるはずないことだった。
色んな感情が混ざり合う前に、両手を合わせて遅れてしまったことを詫びながら、奥さんに「今日の棋譜を置かしても貰っていいですか?」と言ったら「是非」と言ってもらえた。
自分より2つ年上の前田さんも、奨励会時代には小林幹事にお世話になっていたので、この日の対局はそれも何かの縁かもしれなかった。
奥さんに後で聞いたことだけど、前田さんは自分の将棋の結果や記事をとても気にしていて、特に病室では記事を見つけたら切り取ってファイリングしていてくれていたそうだった。だから対局の結果と棋譜を報告してくれるのが本人が一番喜ぶと言ってくれた。
ただの同門、兄弟弟子でそこまであるのかと思うかもしれないけれど、自分にとっては実の兄みたいに小学生のときからくっついていたから、きっと同じように弟みたいに想ってくれていたんだと思う。
奥さんとお母さんと自分の3人で色んな話をした。将棋をやっていた頃、棋士を目指していた頃の前田さんをほとんど知らないという奥さんは、自分が話すことに、時々笑って楽しんでくれているようだった。
自分も、話を聞いて家庭を持った前田さんがどんなに家族を愛していたか、一本気なところのある人だったから尚更わかる気がした。
奨励会時代、決して馴れ合いだけの関係ではなかった。奨励会では2階級差くらいに必ずお互いいたから対局でもあたった。練習将棋も含めて、お互いに生涯一番将棋を指した相手であったと思う。練習将棋でも何番も棒にやられたら、いつもは一緒にご飯食べて帰るのに、今日は家で食べるからって帰るときだってあった。どんなに仲良かろうが何しようが、将棋盤挟んだときだけは違うのが自分達の世界だから。
少し笑ってしまうような話で、「わたしとカラオケに行ったらミスチル歌ってたんですよ」そう奥さんが言って、「それは僕が教えたんです」って。あれは高校生くらいのときだったと思うけど、声の出し方とか、歌い方をレクチャーしたりとかして。ちょっと生意気な弟弟子だったかなぁ。代わりにブルーハーツを教えてもらって、社会からグレそうになるくらい大好きになったんだけど。
三段リーグをわずか2期で、降段したときに将棋をきっぱりやめた前田さんが、病室で将棋の本をたくさん読んでいたこと。
全くインターネットの将棋などやらなかった人なのに病室で将棋をウォーズで千局くらい指していたこと。
3月の将棋大会に出場するのを楽しみに励みにしていたこと。
何も知らなかったのに、何かわかるような気がするし、
何か言ってくれたらって思うのに、何も言わないんだろうなって思うし。
「なんでそうなの?」って聞いたら「だってその方が男らしくてかっこいいじゃん!」ってテレながら絶対言うんだよ。
気づけば長々と明け方まで、奥さんとお母さんと自分と、前田さんもいたような感じで一晩話ていて、遅くまですみませんとお家を後にした。
前田さんが勤務していた頃、毎日乗っていた始発の電車が来るというので、それにあわせて家を出たんだけど、やっぱり途中でぽつんとあるコンビニで酒買って、ひんやりしてたから震えながら座り込んで飲んでた。
前田さんが乗ってた電車は頭上のモノレールの線上を音を音も立てずに走っていって、自分は見てた。それには乗らないで、やっぱり次の電車で行くことにしたよ。
行き先はわからないけどさー。
トレイントレイン走っていくトレイントレインどこまでも。
明日は電王戦タッグマッチに出場します。
見て頂いているファンの方、応援して頂いている方、本当にありがとうございます。
皆さんの期待や楽しみ、それと心配と危惧、自分なりにわかっているつもりです。
結果にはこだわりません、コンピューターの手を借りるわけですから、そして借すわけですから。
各々単体で指すよりも良い将棋が指せればそれでいいと思ってます。
「面白い将棋だってね」って言ってもらえるように。
後は見てくれた方に、全て委ねます。
下図は相矢倉の矢倉から後手の自分が角損の猛攻をしているところ。形勢は駒損でも全軍で戦ってる後手が良い。

図の△7五桂が決め手に近く、先手陣は受けが利かない格好になっていた。
実戦は▲8六角△同飛▲同歩△6七角と進んで勝勢になった。▲8六角は攻防を含んだ手だが、ばっさり飛車で切って△6七角と打って受けなしになった。(△7八角成からの詰めろ)
対局後はそそくさと連盟を出た。元兄弟子の前田真周さんに会いにいく約束があったからだった。
家に帰って着替えて、再び電車に乗ってようやく到着したのは日付が変わる30分くらい前だった。
もう遅い時間だった。
奥さんとお母さんが見守ってくれる中、約2年ぶりの再会が、元気な頃の前田さんの遺影の前になるなんて思いもしなかった。
いや思いもしなかったなんてもんじゃない、そんなことあるはずないことだった。
色んな感情が混ざり合う前に、両手を合わせて遅れてしまったことを詫びながら、奥さんに「今日の棋譜を置かしても貰っていいですか?」と言ったら「是非」と言ってもらえた。
自分より2つ年上の前田さんも、奨励会時代には小林幹事にお世話になっていたので、この日の対局はそれも何かの縁かもしれなかった。
奥さんに後で聞いたことだけど、前田さんは自分の将棋の結果や記事をとても気にしていて、特に病室では記事を見つけたら切り取ってファイリングしていてくれていたそうだった。だから対局の結果と棋譜を報告してくれるのが本人が一番喜ぶと言ってくれた。
ただの同門、兄弟弟子でそこまであるのかと思うかもしれないけれど、自分にとっては実の兄みたいに小学生のときからくっついていたから、きっと同じように弟みたいに想ってくれていたんだと思う。
奥さんとお母さんと自分の3人で色んな話をした。将棋をやっていた頃、棋士を目指していた頃の前田さんをほとんど知らないという奥さんは、自分が話すことに、時々笑って楽しんでくれているようだった。
自分も、話を聞いて家庭を持った前田さんがどんなに家族を愛していたか、一本気なところのある人だったから尚更わかる気がした。
奨励会時代、決して馴れ合いだけの関係ではなかった。奨励会では2階級差くらいに必ずお互いいたから対局でもあたった。練習将棋も含めて、お互いに生涯一番将棋を指した相手であったと思う。練習将棋でも何番も棒にやられたら、いつもは一緒にご飯食べて帰るのに、今日は家で食べるからって帰るときだってあった。どんなに仲良かろうが何しようが、将棋盤挟んだときだけは違うのが自分達の世界だから。
少し笑ってしまうような話で、「わたしとカラオケに行ったらミスチル歌ってたんですよ」そう奥さんが言って、「それは僕が教えたんです」って。あれは高校生くらいのときだったと思うけど、声の出し方とか、歌い方をレクチャーしたりとかして。ちょっと生意気な弟弟子だったかなぁ。代わりにブルーハーツを教えてもらって、社会からグレそうになるくらい大好きになったんだけど。
三段リーグをわずか2期で、降段したときに将棋をきっぱりやめた前田さんが、病室で将棋の本をたくさん読んでいたこと。
全くインターネットの将棋などやらなかった人なのに病室で将棋をウォーズで千局くらい指していたこと。
3月の将棋大会に出場するのを楽しみに励みにしていたこと。
何も知らなかったのに、何かわかるような気がするし、
何か言ってくれたらって思うのに、何も言わないんだろうなって思うし。
「なんでそうなの?」って聞いたら「だってその方が男らしくてかっこいいじゃん!」ってテレながら絶対言うんだよ。
気づけば長々と明け方まで、奥さんとお母さんと自分と、前田さんもいたような感じで一晩話ていて、遅くまですみませんとお家を後にした。
前田さんが勤務していた頃、毎日乗っていた始発の電車が来るというので、それにあわせて家を出たんだけど、やっぱり途中でぽつんとあるコンビニで酒買って、ひんやりしてたから震えながら座り込んで飲んでた。
前田さんが乗ってた電車は頭上のモノレールの線上を音を音も立てずに走っていって、自分は見てた。それには乗らないで、やっぱり次の電車で行くことにしたよ。
行き先はわからないけどさー。
トレイントレイン走っていくトレイントレインどこまでも。
明日は電王戦タッグマッチに出場します。
見て頂いているファンの方、応援して頂いている方、本当にありがとうございます。
皆さんの期待や楽しみ、それと心配と危惧、自分なりにわかっているつもりです。
結果にはこだわりません、コンピューターの手を借りるわけですから、そして借すわけですから。
各々単体で指すよりも良い将棋が指せればそれでいいと思ってます。
「面白い将棋だってね」って言ってもらえるように。
後は見てくれた方に、全て委ねます。
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